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岡崎城は徳川家康公が生まれた城です。人質時代前と桶狭間の戦い後、三河国(愛知県東部)統一。遠江国(静岡県西部)領有まで過ごしました。岡崎城は15世紀前半。西郷頼嗣が築城。当時は別の地にありましたが、1531年家康公の祖父・松平清康が現在の地に移しました。 江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏など家格の高い譜代大名が城主となります。明治時代に取り壊されましたが、天守は1959年に復元されました。岡崎城周辺の繁華街は康生町(こうせいちょう)と呼ばれ、家康公が生まれた場所として今に継がれています。
だいじゅうじ。浄土宗。松平家・徳川将軍家の菩提寺。大樹とは、唐名で将軍をさします。1475年4代松平親忠により開山。家康公は亡き後の自身の扱いについて遺言を残しています。「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう。」大樹寺には、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が安置される。将軍の位牌は、将軍の臨終時の身長と同じといわれ、家康公は159.0cmです。15代将軍慶喜の位牌のみ大樹寺に置かれていない。桶狭間の戦いで敗れた家康公は、手勢18名とともに大樹寺に逃げ込む。自害を決め、登譽上人につたえるも、「厭離穢土 欣求浄土」の教え説かれ、生き延びる決意をする。大樹寺の門から岡崎城を結ぶ約3kmの直線は「ビスタライン」と呼ばれ、岡崎城がみえるよう建物を建てないよう約370年間守られています。
徳川家康公というと、タヌキ親父、忍耐強い、律義者、、、などのイメージがありますね。「どうする家康」では、あらたな家康公が描かれていますが、新しい史実の発見などに基づいて描かれていることも多いようです。ここでは、意外と知らなかった?家康公について紹介します。
家康公には、同じ日に生まれた兄弟がいた!
ドラマなどでは家康公は一人っ子のように描かれますが、実は同じ年同じ日に生まれた兄弟がいました。名前は恵新(恵最穎新)といいます。父は家康公と同じ広忠で、母は大給松平家松平乗正の娘お久の方。異母兄弟です。後々争いのもとになるのを防ぐため、生まれてすぐに仏門に入りました。 桶狭間の戦いの後、岡崎で恵新に会った家康公は父広忠の菩提を弔うために広忠寺(こうちゅうじ)を岡崎市桑谷町に創建。恵新が最初の住職になり、母のお久とともに広忠の供養に勤めたと言われています。
家康公の本当の顔は、一重で釣り目!
家康公というと恰幅のいいイメージがありますが、絵画や木像など没後につくられたものも多いようです。京都・知恩院にある徳川家康坐像(康猶作)は、「最も家康公に似ている」といわれ、40歳のころの等身大の木像です。一重でやや釣り目のお顔は、祖父清康、長男信康などと特徴がよく似ています。
家康公の血液型は
家康公の血判、遺髪がないため、血液型はわからないようです。ただ、2代将軍秀忠はO型、4代将軍綱重はO型など判明しており、そこから推測すると、AB型ではないようです。ちなみに織田信長はA型(断定できず)、豊臣秀吉はO型(血判より)のようです。
名前の秘密。なぜ「家康」と名乗った?なぜ「徳川」に改姓した?
名前は、「竹千代→元信→元康→家康」と変わります。まず、「康」の字ですが、17歳の初陣の際、尊敬する祖父清康の字からとったと言われています。「家」の字は、21歳今川氏から独立後、今川義元の元の字を返上し、尊敬していた源義家から一字をとったと言われています。 24歳のとき、三河国を平定し、三河守に任官する際、姓を松平から「徳川」に改めました。当時は、官位を受けるには、家の由緒が必要で、家康公は清和源氏新田氏の庶流である徳川家(得川家)の末裔を称したと言われています。
葵紋はいつから使用してるの? 本多家の立ち葵紋との関係は?
松平家の葵紋は、家康公の祖父清康が本多正忠より譲り受けたものと言われています。
清康は、三河平定のため東三河を侵攻します。この時、伊奈城主・本多正忠は、いち早く清康の陣に参じ、先陣として吉田城を攻め落とします。正忠は清康を伊奈城へ招き、酒宴をひらきます。この酒宴では、城内にある花ヶ池の水葵(ジュンサイ)の葉に肴を盛ってさしだしたそうです。これは中国の春秋左氏伝に書かれている「明らかな真心あれば、谷や沼の水などでも、神や王公に捧げ潔さと忠誠心を表す」と云う教訓にならったものです。清康は、この心づくしに大変喜び、本多家の家紋「立葵の紋」を譲り受け、以降使うようになったと言われています。このことを裏付けるように、清康の肖像画(隨念寺)には立葵の紋が描かれています。
その後、この立葵の紋は、家康公の代に本多家との話し合いの上、葉の部分をデザイン化して、三つ葉葵紋になったと伝えられています。本多一族の本多忠勝、本多正信、本多作左衛門重次なども、立葵の紋を使用しています。
また、別の説で、松平氏が賀茂神社の氏子で、賀茂神社神紋である「二葉葵」をもとにしたという説もあります。
実は短気で、好奇心が旺盛、倹約家の家康公
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
「人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」
など家康公の性格は、忍耐強い、我慢強いと思われる方も多いでしょうが、実際は短気のようです。
人質時代の家康公は鷹狩にあこがれるも、鷹は高価で得ることができないので、鳥居元忠にもずを鷹のようにしつけるよういいます。当然、もずが鷹のようになるはずもなく、うまくしつけられなかった鳥居元忠を怒って、縁側から庭にけり落したと言われています。
三方ヶ原の戦いでは、織田信長が岡崎城への退去をすすめるも、「我もし濱松を去らば、刀を踏み折りて武士を止むべし」といって信長に反抗して浜松にとどまったとのこと。
関ヶ原の戦いでは、自軍の兵が、うっかり誤って、家康公の目の前で馬を乗りかけた際、刀を抜いて兵を斬りつけたそう。兵は逃げるも、怒りのおさまらない家康公は側にいた近習の指物(旗など)を真っ二つに斬ってしまったとのこと。
大阪夏の陣では、攻め手の諸将が損害を重ねたため、家康公は怒りのあまりな長刀をとって立ち上がり、そばにいた鳥居忠政(鳥居元忠の子)と永井直勝が逃げ出したとのこと。
切腹しがちな家康公、ピンチになると切腹をしようとします。桶狭間の戦いのあと逃げ帰った大樹寺で、本能寺の変を知って堺で、大阪夏の陣で真田幸村に攻め込まれて。切腹癖は若い時から晩年まで続いたようです。
戦のときの、家康公は味方がピンチになると指を噛む癖があるようで、関ヶ原の戦いでも指を噛んでいたようです。愛用の軍配も噛んだ歯形でいっぱいだったとのこと。激高すると馬の鞍を拳で殴りつける癖もあり、拳が血だらけになったと言われています。
保守的と思われがちの家康公ですが、好奇心が旺盛のようです。当時めずらしいスペインの洋時計、砂時計、日時計を所有したといわれています。また、日本へもたらされたばかりの眼鏡を愛用し、日本で初めて鉛筆を使ったのも家康公です。
白米は贅沢といって麦飯を食べ、ふんどしは洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない浅黄色にしたなどケチと言われるほどのエピソードがあります。ただし、織田信長を接待するときなど肝心なときには出費を惜しまなかったと言われています。
家康公の言葉
家康公はもともとは短期な性格なのでしょうが、年を重ねるにつれ、忍耐強い性格に変わっていったのでしょう。そのように変わったのも家臣想いの性格だったからでしょう。
「戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が」
「堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え」
「我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり」
「主君への諌言は一番槍より勝る」
武芸にすぐれた家康公
家康公は武芸の達人と言われています。剣術は、奥平久賀から指南され、柳生宗厳から新陰流兵法の相伝を受けたといいます。馬術は大坪流を会得し、「海道一の馬乗り」と称されていました。愛馬は白石(しらいし)、名前に白が入っていますが、毛色は黒色とのことです。鉄砲は稲富流を学び、毎日鉄砲を3発撃っていたそうです。水泳も得意で家康公自ら、長男信康にも教えていたとのことです。武芸に優れた家康公は、戦場でも馬上から指揮をしていたようです。
戦国大名のなかで1位、2位を争うほどの読書家
ドラマでは愛読書で「吾妻鏡」がでていましたが、ほかにも「源氏物語」「延喜式」を読み、和書だけでなく「論語」「中庸」「史記」、中国の兵法書「六韜」「三略」をよく読んでいたようです。家康公は戦国大名のなかでも1位、2位を争うほどの読書家で、なかでも歴史書が好きで、和歌や詩などはあまり好きではなかったようです。
家康公は本の知識によって、戦をし、家臣を育成し、政治をしたと伝わります。家康公の言葉に「道理を諭し知らんとならば、書籍より外には無し。」とあります。
戦国時代、外国人は家康公をどう評価していた?
スペイン人のフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが、66歳の家康公と謁見した時、「尊敬すべき愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色は黒くなく、また彼より肥満していた」と言っています。そして、最敬礼するビベロに対し、当初、表情を変えなかった家康公も、少し頭を下げ、好意的な微笑を示したようです。
家康公は、織田信長・豊臣秀吉をどのように評価していた?
家康公は、天下をとったのち、織田信長・豊臣秀吉のことを以下のように言っています。
「織田信長公は、人を上手に使い、度量は広く、知勇に優れているが、堪忍が人より7つ8つ程度で破れてしまいます。そのため明智光秀に討たれた。」
「豊臣秀吉公は、現在までで極めて度量が広く、知勇に優れ、芯がしっかりしている。身分が低い出でしたが、20年で天下の主となったのもその性格からでしょう。しかしあまりに度量が広すぎて堪忍が破れました。度量が広いのはいいが、身のほどを知らず、あらゆることに華やかを好み、身分以上の知行をあたえ、物をあたえるのも、度量が広いとはいえません。得意になりすぎたといえます。」
■瀬名姫が住んだ築山ってどんなところ?おすすめの散策ルート
今回のどうする家康では、新しい解釈の瀬名姫が描かれていますね。瀬名姫は築山御前という名前でも有名ですが、それは岡崎市の築山という場所に住んだことが由来です。瀬名姫は人質交換で岡崎に移ると、岡崎城には入らず、岡崎城から東へ徒歩10分程度の築山に住みます。現在、岡崎市には築山という地名は残っていません。当時あった総持尼寺(現在のNTT西日本岡崎ビル、岡崎市康生通南3丁目)の西側辺りに住んだと言われています。
現在、当時をしのぶものは残っていませんが、国道1号線から北に少し坂になった場所ですので、築山という地名を感じることができます。
築山へは、名鉄東岡崎駅→家康公の騎馬武者像→桜城橋→中央緑道のある徳川四天王石像と行くのがおすすめです。最後の井伊直政像を超えたところが、かつての瀬名姫の屋敷があったところと推測されます。
さらに瀬名姫しばりで観光したい方は、祐傳寺と八柱神社へ行かれるのもいいでしょう。築山から少しありますが歩けない距離ではありません。祐傳寺(岡崎市両町)は、瀬名姫の首を織田信長による実検を受けた後、石川数正がその首を持ち帰り葬った場所になります。その後、江戸時代に首塚が移動された先が八柱神社(岡崎市欠町)になります。 やはり岡崎に来たら岡崎城や大河ドラマ棺を観光したいという方は、徳川四天王石像から、さらに坂をのぼるとユーチューバー東海オンエアの聖地の1つ康生地区もあり、ここは榊原康政など家臣の屋敷があったといわれています。康生地区を経由して岡崎城・大河ドラマ館へ行くのもおすすめです。
家康公の騎馬武者像
家康公が、岡崎に住み、松平から徳川に改姓した25歳当時の姿をしています。海道一の馬乗りといわれるほど乗馬が得意だった家康公の騎馬武者銅像です。台座の書は徳川宗家第十八代当主徳川恒孝氏によるものです。台座を含めた全高は9.5mという日本最大級の騎馬像です。
桜城橋
全長121.5m、幅19m、広さ2,000平米の広大な歩行者専用橋です。歩行者がゆったりと景観を楽しめるよう、表面に岡崎額田地区産の木材を使用し、ヒノキの香る落ち着いた空間になっています。
徳川四天王石像
中央緑道にあります。全長約320mの緑道は「道であり、広場でもある空間」です。石像は、岡崎の特産である御影石で表現されています。
本多忠勝像
1572年「一言坂の戦い」で、本多忠勝が殿(しんがり)を務めて追撃してくる武田軍を名槍蜻蛉切でくいとめます、その際に、敵軍武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言わしめました。忠勝が敵陣に攻め入り威嚇した馬上の勇姿を再現しています。
酒井忠次像
1572年「三方ヶ原の戦い」で、武田信玄に大敗し、当時の本拠地・浜松城に逃げ帰った際に、城内が意気消沈する中、一計を案じた酒井忠次は全ての城門を開いて かがり火 を焚き、櫓の上で太鼓を打ち鳴らす奇計で、難を逃れたといういわれがあります。「酒井の太鼓」を象徴する忠次が太鼓を打ち鳴らす勇姿を再現しています。
榊原康政像
1584年「⼩牧・⻑久⼿の戦い」で、榊原康政は徳川軍へ攻め入ろうとする羽柴秀吉を非難する檄文を書きます。秀吉はこれに激怒し、康政の首を獲ったものには10万石を与えるという触れを出したといわれます。その檄文を記した高札を掲げる、静の姿ながら熱い思いをたぎらせる勇姿を再現しています。
井伊直政像
「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせ、「井伊の赤鬼」として諸大名から恐れられた直政。1600年「関ヶ原の戦い」で、井伊直政は、家康公四男忠吉を補佐し、味方である東軍の福島軍が先鋒を任されていたのを、先鋒は徳川方が行ったことにするため「先陣抜け駆け」の突撃をした際の勇猛果敢な馬上の勇姿を再現しています。
■家康公の宝「三河武士・徳川家臣」
家康公は豊臣秀吉に「我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり」と言いました。 家康公を支えた三河国出身の譜代の家臣「三河武士」は、忠義に厚く、頑固で愚直と言われています。そんな三河武士・徳川家臣を紹介します。
徳川四天王は誰が決めたのか?
徳川四天王とは、酒井忠次(大森南朋演)、本多忠勝(山田裕貴演)、榊原康政(杉野遥亮演)、井伊直政(板垣李光人演)の4名を指しますが、誰が決めたか、いつから呼ばれたかは定かではないようです。
ただ、1586年に家康公の名代として、本多忠勝、榊原康政、井伊直政が上洛した際、「徳川三傑」と呼ばれ、この3名に最古参の家老格の酒井忠次を加えた4名を、のちに徳川四天王と呼ばれるようになったようです。
この4名は、家康公と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いでも活躍しました。豊臣秀吉は、従四位下に酒井忠次を叙任、従五位下に本多忠勝、榊原康政、井伊直政などを叙任しました。そして家康公が関東移封となった際は、豊臣秀吉が徳川三傑には10万石以上を与えるよういったと言われています。
徳川十六神将とは?徳川二十八神将とは?
徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)とは、家康公をささえた16名の家臣をいいます。徳川四天王に加え功臣12名が該当します。徳川四天王と同様、誰が決めたか、いつから呼ばれたかは定かではないようです。江戸時代には家康公と徳川十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰として好まれたようです。
徳川十六神将に、さらに12名の功臣を加え、徳川二十八神将(とくがわにじゅうはちしんしょう)と呼びます。この28人は日光東照宮に家康公とともに祀られています。
該当する家臣は、下記の通りです。大部分は三河時代の武功派が多いようです。出奔した石川数正や文知派の本多正信は入らないようですね。鬼作左こと本多重次がはいらないのは晩年蟄居させられたからか、石川数正の先代西三河の旗頭の石川家成ははいらないものなのか、気になるところです。
酒井忠次 徳川四天王
本多忠勝 徳川四天王
榊原康政 徳川四天王
井伊直政 徳川四天王
大久保忠世 徳川十六神将
大久保忠佐 徳川十六神将
鳥居元忠 徳川十六神将
平岩親吉 徳川十六神将
服部正成 徳川十六神将
渡辺守綱 徳川十六神将
高木清秀 徳川十六神将
蜂屋貞次 徳川十六神将
松平康忠 徳川十六神将
米津常春 徳川十六神将
内藤正成 徳川十六神将
鳥居忠広 徳川十六神将
安藤直次 徳川二十八神将
本多忠俊 徳川二十八神将
伊奈忠政 徳川二十八神将
岡部長盛 徳川二十八神将
大久保忠教 徳川二十八神将
大須賀康高 徳川二十八神将
奥平信昌 徳川二十八神将
酒井正親 徳川二十八神将
菅沼定盈 徳川二十八神将
内藤家長 徳川二十八神将
内藤信成 徳川二十八神将
本多康高 徳川二十八神将
松平伊忠 徳川二十八神将
水野勝成 徳川二十八神将
※該当者には諸説あり、人物名の誤記や混乱が多く見られるようです。
関東移封時の主な家臣の石高
1590年、家康公は関東移封し江戸にはいります。その際、主な家臣へ分配した石高は下記の通りとなります。石高だけで家臣を評価することはできませんが、移封当時の家臣の状況を知ることができます。そしてその後、家康公は関ヶ原の合戦に勝利するなどし、家臣の石高はさらに増えていきます。
12.0万石 井伊直政
10.1万石 結城秀康 ※家康公の次男
10.0万石 本多忠勝
10.0万石 榊原康政
4.5万石 大久保忠世
4.0万石 鳥居元忠
3.7万石 酒井家次 ※酒井忠次の嫡男
3.3万石 平岩親吉
3.3万石 本多康重
3.0万石 奥平信昌 ※家康公の娘婿
3.0万石 依田康勝
3.0万石 小笠原秀政
3.0万石 大須賀忠政
~
1.0万石 本多正信
0.8万石 服部半蔵
0.3万石 渡辺守綱
三河武士由来の東京の地名
豊臣秀吉によって関東移封となった家康公は、1590年に江戸に入ります。榊原康政を関東総奉行とし、本多正信、青山忠成、内藤清成、伊奈忠次らが実務を担います。当時の江戸は荒れた湿地帯でした。神田の山を崩して日比谷あたりを埋め立てたり、上水を整えたりします。そのため、東京には三河武士に由来する地名がいまも残っています。
青山
江戸町奉行であった青山忠成が家康公の供をした際に、 赤坂から渋谷に至る広大な土地を拝領し屋敷地としました。
新宿
江戸町奉行であった内藤清成が新宿御苑を含む広大な土地を拝領しました。 後にこの地内に甲州街道を接続し新たな宿場を創設したことから、内藤新宿と呼ばれるようになります 。
半蔵門
江戸城半蔵門の由来は、服部半蔵正成の屋敷があったからともいわれます。
信濃町
老中で信濃守であった永井尚政の下屋敷に由来したといわれています。
忠義に厚い家臣たち
三河武士は犬のように忠節と言われますが、実際そうなのでしょうか。祖父清康は家臣に殺害されました。父広忠も家臣に殺害されたという説があります。そして、三河一向一揆では、本多正信、渡辺守綱、夏目広次など家臣の半分が一揆側についたと言われています。決して、もともと忠義に厚い武士たちとはいえないのではないでしょうか。なぜ家康公への忠義をつくしたか。それは三河一向一揆をおさめたあと、一揆方にまわった家臣たちを許したからとも言われています。
鳥居元忠
家康公人質時代の幼少期から従います。家康公より3つ年上の元忠ですが、家康公が元服するまで待って元服したと言われ、元忠の元は今川義元からもらったとも言われています。 徳川四天王など三河武士たちが豊臣秀吉に官位を叙任されるも断ります。感状も他家(徳川家以外)に仕えるときに必要なものといって受け取らなかったと言われています。そして関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いでは、2000人で守る伏見城を、西軍4万人に取り囲まれつつも10日以上耐え、西軍の進軍を遅らせ最後は自刃しました。伏見城に残された血染めの畳は、元忠たちの忠義を賞賛して江戸城の伏見櫓の階上においたと言われています。大久保忠世の弟で、天下のご意見番として有名な大久保彦左衛門忠教が記した三河物語のなかで、鳥居元忠を「三河武士の鑑」と言っています。
平岩親吉
家康公と同い年で、鳥居元忠と同様、家康公人質時代の幼少期から従います。三河一向一揆では矢をうけて倒れ、首を取られそうになったところ家康公に救われたと言われています。家康公の嫡男信康の守役となり、のちに信康に謀反の疑いがかけられると、自ら切腹して助命をしようとするも、家康公に許可されず1年程蟄居謹慎します。家康公の叔父水野信元を謀反の疑いで、望まぬも君命により殺害します。子のいなかった親吉に家康公は自らの子を養子にだしています。晩年は、家康公の九男の徳川義直が尾張藩主となると親吉は後見役となります。親吉は家康公の3人の息子を任されたかたちになります。無私無欲だった親吉は、秀吉が親吉に黄金を渡そうとするも徳川家より禄をもらっているからと断ったといわれています。
夏目広次
吉信として有名ですが、一次資料では広次とのこと。ドラマでは家康公が名前を間違えるシーンをあえていれてますね。三河一向一揆では、一揆方につくものちに許されます。武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いでは、当初浜松城を守っていましたが、徳川軍の敗色が濃厚だと知ると、家康公のもとへ行き退却を進言。家康公はなお突撃しようとするので、広次は家康公の馬のむきをかえて逃し、家康公の兜をかぶって武田軍に突進。身代わりになって討ち死にしたと言われています。夏目漱石は子孫とのことです。
蜂屋貞次
通称は半之丞。ドラマ三河一向一揆の回では、一揆方に加勢するため寺へむかう際、鳥居元忠が「はんのじょう」と止めようとしてましたね。一揆方に加勢した貞次ですが、家康公を戦場でみると、主君と戦えぬと逃亡したと言われています。そして、和睦も貞次から申し入れたと言われています。一揆鎮圧後は許されて帰参し、三河国平定の三河吉田城攻めの際は、本多忠勝と先陣を争う活躍をするも鉄砲で撃たれ負傷、その傷がもとで亡くなります。
頑固な家臣たち
三河武士は頑固で愚直なものが多いことで有名です。
本多重次
鬼の作左(さくざ)とも呼ばれます。今回のドラマでは出演するかわかりませんが、40年前の大河ドラマでは長門裕之さんが演じました。家康公に諫言することはあたりまえです。武田家から分捕った釜ゆでの刑につかう釜を家康公が持ち帰るように重次に命令するも、このようなものを使う世にしてはいけないと家康公の命令を無視して釜を壊してしまったと言われています。重次は天下人豊臣秀吉にも容赦ありません。秀吉が家康公に上洛を促すために、実母大政所をなかば人質として家康公に送りました。その世話役を重次が担当しますが、大政所の宿舎に、薪を積んで、万一のときにはいつでも焼き殺せるようにしたと言われています。そのような重次ですが、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」という簡潔で要領をえた手紙でも有名です。
大久保忠教
大久保忠世の弟で、天下のご意見番として彦左衛門として有名です。三河物語の著者でもあります。大阪夏の陣では、真田信繁の突撃により、家康公の本陣が攻め込まれ、家康公の馬印が倒れてしまいます。のちに馬印が立っていたと言う忠教を家康公は呼び出すことに。家康公が直々に問いただすも立っていたと言い張ります。家康公は怒るも、冷静になって徳川家の面目のためだと気づきます。沼津2万石の次兄の忠左は子がいなかったので、忠教を養子にしようとしますが、忠教は自分の手柄ではないからと断っています。徳川家光が忠教が死ぬ間際に5000石を与えようとするも、まもなく死ぬ自分には不要と断っています。
榊原康政
徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅れます。戦後、怒った家康公は、秀忠に会おうとしません。康政の涙を流しての訴えにようやく秀忠に会ったと言われています。そして、館林から水戸25万石に加増転封を打診されますが、関ヶ原の戦いでの戦功がないこと、館林のほうが江戸に近く何かあったときにすぐに駆け付けることができるので、断ったと言われています。家康公は康政に感謝して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えました。
家康公のたくみな人材配置
三河一向一揆後の1565年、三河三奉行として、天野康景、高力清長、本多重次の三人を民政・訴訟等の担当とします。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」といわれるように異なる性格の担当をつけて、公平な判断をするようにしたと言われています。
三河国平定後の1566年ごろ、軍制を整え三備の制とします。
家康公直轄の旗本
東三河衆(旗頭:酒井忠次)
西三河衆(旗頭:石川家成のちに石川数正)
の3つにわけます。家康公直轄の旗本のなかには、のちに活躍する榊原康政・本多忠勝・大久保忠世・鳥居元忠などが入ります。そして、祖父清康・父広忠の頃から同族間での争いが増していた松平一族を、東三河衆と西三河衆にいれることで家臣としました。
関東移封の際は、家臣の反対も多かったようですが、反対派のリーダーだった榊原康政を逆に関東総奉行に任命し、反対派をおさえたと言われています。そして、徳川四天王など強い武将などを遠方に配置し、敵国に隣接する地域や街道沿いに配置し関東全体を守るようにします。
三河武士に多い苗字
松平氏は豊田市松平町で発祥し、その後岡崎市岩津、安城市と拠点を移し、家康公の祖父七代清康のときに岡崎城に入ります。その拠点ごとに加わった家臣を岩津譜代・安城譜代・岡崎譜代といい、総称して三河譜代といいます。その後、家康公が浜松に拠点を移してから関ヶ原の戦いまでに加わった家臣を駿河譜代といいます。
岩津譜代
酒井・林・成瀬・本多・天野・大久保・平岩・高力
安城譜代
阿部・石川・青山・植村・内藤・榊原・安藤・鳥居
岡崎譜代
井伊・久世・永井・大岡・渡辺・板倉・井上・夏目・大須賀・服部・戸田・水野・奥平・菅沼・ 牧野・設楽・西郷・鵜殿・松井・伊奈
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コーヒー向けグラス ダブルウォールグラス |